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夏**太
最強の子供向け映画にして、実は宮崎駿の集大成的作品
大人からは「意味不明」「子供向けすぎる」なんて言われがちで、宮崎駿作品の中では人気の低い『ポニョ』。しかし、実は色んな意味で宮崎駿作品の集大成であり、宮崎駿論的には欠かせない一作である。とはいえ、上述の評価はまた、『ポニョ』という集大成的作品に向けられた感想としては、正しいものだ。具体的に言うと、次の5点で、『ポニョ』は集大成的作品だと言えるだろう。①アニメーションとしての技術的集大成②西洋と和の融合としての世界観的集大成③自然と文明(人間)の共生という思想的集大成④プライベートの活動と密着した教育論についての集大成⑤マザコンでありロリコンという屈折した性癖の集大成ここからは、各項目について細かく見ていく。【以下、宮崎駿作品のほぼ全作品についてネタバレしているので注意】まずは①の「アニメーション技術としての集大成」について。今は日本でもフル3DCGアニメが増えているし、モブや馬、メカなんかは、もはや手書きで描く例の方が少ないくらいだろう。だが、アメリカの子供たちの間では、もはや「アニメ=3DCGアニメ」という認識で、手描きアニメというだけで――まるで今の子どもたちが「白黒なだけで見る気がしない」と昔の映画を見ることができないように――壁を感じてしまうらしい。その証拠として、アカデミー賞を取った『千と千尋』はそこまでアメリカではウケず、その反省として、『アリエッティ』のポスターをピクサーのような3DCGアニメのようなルックにしたところ、千と千尋よりずっと売れたというエピソードが残っている。そんなアニメ史上においては、スタジオジブリ作品は「昔ながらの職人的な手描きアニメの技」が残されているという評価が世界的になされている。それは宮崎駿が3DCGを(当時は)嫌っていたからだ。とはいえ、『もののけ姫』や『千と千尋』、『ハウル』ではところどころに3DCGが使われている。だが、そこにはやはり不満があったのだろう。それだけでなく、千と千尋とハウルに関しては、スケジュール的な問題もあり、満足のいく画作りができていなかった。一方、ポニョでは、「紙に描いて動かすのがアニメーションの根源」だとして、コンピューター(CG)を一切使わず、手書きによって原画を描くことを第一方針として企画書の段階から打ち出している。宮崎駿といえば、今や「映画監督」の肩書だが、そもそもは「天才アニメーター」として名をはせていたわけで。まず、冒頭から凄い。雲から入り、海へ。そしてフジモトやポニョが描かれるのだが……そこからポニョが家出し、宗介とリサに視点が移るまでの約3分半、セリフは一言もない(ポニョの妹達の鳴き声は除く)。ちなみにその後もセリフはほんの少ししかなく、冒頭の約10分間はほとんどセリフなしで、映像のみの力で魅せていく。子供を主なターゲットとした娯楽長編アニメで、このようは作例はおよそ前例がない。同じく海の中が舞台で、家出する子供の魚が主人公の子供向けアニメ映画、ピクサーの『ファインディング・ニモ』と比較すれば、ポニョが、いかに「アニメーションの力を信じているか」がよくわかる。(ちなみに、冒頭セリフ無しでアニメーションのみで魅せる演出は、次作の『風立ちぬ』でも共通である)もっとも、説明セリフが極限まで排されたポニョは、今のセリフでの説明に慣れきった観客には理解されず、「意味不明」「難解」などという評価を与えられることになった。しかし、セリフ(言葉)での説明や論理に毒されていない児童には、ポニョの物語が直感的に理解でき、素直に楽しめているのだから、やはり我々大人の視聴態度に問題があると言うべきなのだろう。作画面で特筆すべきポイントは、やはりなんと言っても「海(水)」の表現だ。水の表現は、手書きのアニメーションにおいて最大の関門だとされている。事実、宮崎駿も、海を舞台にした作品はいつか描きたいと長年夢見つつも、「波を描くのが大変」と踏み切れずにいたほど。ポニョの舞台が海と水と波にあふれているのは、アニメーションの集大成としての挑戦的な意味合いもあったのだろう。ポニョが津波の上を走るシーンや、魚が津波となって町を襲うさまは、まさに、実写では絶対に再現不可能な、アニメーションならではのイマジネーションに満ち満ちた描写だ。しかし宮崎駿の凄いところは、そんな空想の絵空事に、本当にそこにあるかのような"実在感"や"身体性"を付与してしまうところにある。だからこそ、子供はジブリ映画に熱狂するのだ。その、「そこにあるかのような非日常」という、アニメーションのもたらす"異化効果"にワクワクやスリルを感じるからに他ならず、また、それこそがアニメーションの最大の醍醐味なのである。なにしろ、アニメの語源は「命を吹き込むこと」にあるのだから。そしてこの、絵空事に命を吹き込む上で発生する"異化効果"が最大限に発揮されるのは、やはり3DCGではなく、手書きのアニメーションなのである。ポニョが「アニメーションとしての集大成」であるという証拠は、データとしても示されている。実はポニョは総作画枚数170,653枚と、過去、あるいは最新作の『君たちはどう生きるか』までを含めた全宮崎駿作品の中でも過去最高の作画枚数なのだ(ポニョより33分長い『千と千尋の神隠し』が144,043枚、19分長い『ハウルの動く城』が148,786枚だという事実を踏まえると、ポニョの異様さがわかるだる)。(ただしスタジオジブリ作品では、高畑勲の『かぐや姫の物語』の24万枚という脅威の記録があるのだが…)次に、②「西洋と和の融合としての世界観的集大成」について。宮崎駿は、この世代特有の(近代)日本への反発心から、学生時代はヨーロッパ文化に浸っていた。宮崎駿の創作の源は、学生時代に浴びるように読んだヨーロッパの児童文学にある。事実、初期オリジナル作の『シュナの旅』や『未来少年コナン』、『天空の城ラピュタ』、『風の谷のナウシカ』、『魔女の宅急便』はヨーロッパ(あるいはヨーロッパ的な)舞台ばかりである(『パンダコパンダ』は舞台こそ日本であるものの、その風景は西欧舞台のハイジを思わせる)。しかし、藤森栄一の『古道』や中尾佐助の「照葉樹林文化論」に出会ったことで、日本を再発見した宮崎駿は、真逆の、「(近代以前の本当の)純日本」あるいは「神道」的な舞台や要素を描くようになる。『となりのトトロ』や『もののけ姫』がその典型だが、『千と千尋の神隠し』も非常に日本的・神道的な要素を取り込んだ独自の世界を創造している。しかしポニョでは、日本の人魚伝承とヨーロッパのマーメイド伝承、そして北欧神話と日本神話(神道)を融合させた独特の世界観が描かれる。日本要素が豊富な千と千尋の神隠しにも似たところはあったが、本作ではもっとわかりやすく西洋要素を取り込んでいる。たとえば全体の筋はアンデルセンの『人魚姫』に近く、「愛を得られないと泡になる」などの設定も同じだ。だが、西洋=キリスト教圏の人魚は、「魂」がないということになっており(というより魂を持つのは人間だけ)、その点がアンデルセンの『人魚姫』のオチにも深く関わっている。だが、ポニョではポニョに限らず、日本のアニミズム的世界観の元、どんな生物も人間と同等の「魂」を持つことになっているのだ。この点から、ポニョは、これまで「純ヨーロッパ」、あるいは「純日本」的な作品を作ってきた宮崎駿作品の系譜から見ると、両者を融合させた、一種の集大成的な作品だと言えるだろう。次は、③「自然と文明(人間)の共生という思想的集大成」について。そして宮崎駿が作品を通してずっと我々に伝えてきた、宮崎駿作品に通底する最大のテーマは、なんといっても「自然と文明(人間)の共生」である。これは説明不要だろうし、そのテーマは一度、(最初の)引退宣言をした際の『もののけ姫』で集大成的に、徹底的に描かれた。しかし、そこで下された結論は過酷なものだった。シシガミの呪い(祟り)は解決し、荒廃した自然こそ回復したものの、コダマ(木の神)が宿るシシガミの森(=原生林)は消え、そこに現れたのは、あくまでも人間に征服された自然である「里山」「人工林・二次林」の姿であった。もののけ姫ラストのファンタジックな展開は、近世日本で起きた現実の日本の自然の暗喩だ。現在の日本は、確かに他の先進国と比べたら、国土に占める森林の割合は非常に高い(国土の67%で、192ヵ国中17位の割合)。しかしその内、原生林の割合は4パーセント以下である。原生林が減少した結果、現在の日本(あるいは先進国)では生物の多様性は失われ、花粉症などの新しい自然災害が発生した。また原生林は人工林・二次林と比較して水の保持能力や炭素蓄積能力が低いために、洪水・干ばつなどの異常気象に加え、地球温暖化の原因の一つになっている。またにもかかわらず、根系の多様性が失われた今の土地は、土砂災害や津波に対して非常に弱いものとなった。それは本当に「共生」と言えるのだろうか?「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことはできない」「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って」というラストシーンのアシタカとサンのセリフに象徴されるように、宮崎駿の下した結論は、「人間と自然は、共生はできても、わかり合う=融合することはできない」というものだった。ちなみに、もののけ姫公開の3年前に完結した、(もののけ姫の原点とも言える)原作版ナウシカでは、そのクライマックスにおいて、「人間が自然を完全に征服していた」ことが明かされたように、やはり、人間と自然の共生は果たされていない(もっとも、ナウシカの場合は「人間と自然」という対立軸を越えて、その、「人間に完全に征服された自然」の中にも新たな生命=自然が宿っており、さらにはそれがナウシカらにも重ね合わされることで、自然も人間も同じ「生命」だという結論がなされているが)。このように、「自然と文明(人間)の共生」というテーマについては『原作ナウシカ』と『もののけ姫』で一度結論を下したということで、次作の『千と千尋の神隠し』では、このテーマは脇道に置かれ(それでもハクやオクサレサマの正体でそのテーマは語り直されている)、宮崎駿作品において中盤から目立ってくる、「子供(の成長・教育)」というテーマを中心に据えている。『ハウル』でも、やはり「自然と文明(人間)の共生」については特に言及されない。しかし本作ポニョでは、実は、「自然と文明(人間)の共生」というテーマが再度描かれることになり、しかも、今までの宮崎駿作品ではなかった結論が下されることになる。それは、「人間と自然の融合(わかり合うこと)」である。ポニョの母グランマンマーレは海の神(チョウチンアンコウ)であり、父フジモトは人間だが、海の眷属に下っているので、人間を辞めている。その点から、ポニョは人間(文明)と自然のハーフと言えるかもしれないが、正体が魚であり、魔法を使わないと人間化できないように「自然」の象徴と言うべきだろう。またこうして見ると、明らかに「人間だが犬神(=自然)に育てられて自然を象徴するサン」のリフレインだとわかる。となれば、その恋愛相手の宗介はアシタカのリフレインであり、当然、「人間(文明)」の象徴となる。もののけ姫において、サン(自然)とアシタカ(人間)の結婚が叶わなかったことは前述の通りだが、しかもポニョはサンと違って「肉体が魚=人間ではない自然」なのだから、その結婚(融合=わかり合うこと)は、もののけ姫以上に困難なものになるはずだ。ポニョの父「フジモト」は、人間だが、自然を破壊する人間を嫌悪し、海の神(グランマンマーレ)の眷属となって人間を辞めた。これは、自然を愛する、宮崎駿の一側面だ。フジモトは言う。人間なんてロクでもない、人間と一緒にはなれないと。しかし、ポニョにおいては、二人は結ばれて終わる。これはもののけ姫、あるいは宮崎駿作品の思想としては異例の展開であり、また原作となったアンデルセンの『人魚姫』とも真逆の展開だ。1997年のもののけ姫では叶わなかった、自然と人間の結婚・融合・わかり合うこと=完全な共生は、その約10年後に、ポニョと宗介が結ばれたことで果たされたことになる。これを思想的集大成と言わずして何と言おうか。では、なぜもののけ姫(サンとアシタカ)では叶わなかった自然と人間の結婚(共生)は、ポニョ(ポニョと宗介)では成し遂げられたのか?それは、ポニョと宗介が子供だったからに他ならない。宮崎駿は「ロリコン」と揶揄されるが、それは世間一般的な「性的欲望の対象」としてのロリコンというよりも、強いていうなら、「子供好き」という方が正確だろう。というのも、宮崎駿自身は実はそうとうなペシミストなのだが、しかし宮崎駿自身はその自身の気質を嫌悪していて、(子供には「この世界は素晴らしい、生きるに値する世界だ」と感じられるような作品を作らなくてはならないという自身の哲学から)自身のニヒリズムの克服のために「子供のための希望に満ちた映画=アニメーション映画」を作っているくらいなのだから。宮崎駿にとって希望があるのは、まだ穢れていない純粋な、可能性の塊である子供だけなのだ。もっとも、「子供(次世代)にしか希望がない」というのはやはり、相当なペシミズムなのだが…戦争と学生運動の敗北を経験した焼け跡世代だから仕方ない。同世代の富野由悠季が、新しい世代に皆がわかりあえるようになる希望を抱きつつも、人間や正義は必ず腐敗し、戦争は終わらないという悲観的な物語を、ガンダムのニュータイプ論で描き続けたように…もっとも、『もののけ姫』や漫画版『ナウシカ』では、大人(=人間)を穢れた存在としつつも、その穢れと共に生きるのが人間(生命)だと、穢れを肯定するようにもなっているが…それでも、宮崎駿にとって、子供だけが彼の希望であることは間違いない。だからこそ、彼の映画では(大人向けの『紅の豚』や『風立ちぬ』をのぞいて)基本的に子供が主人公となるわけだが…ポニョの宗介は、主人公の年齢としては最年少を更新した。またそこには、宮崎駿の子供に対するもう一つの想い…「教育論」を見ることができる。それが④の、「プライベートの活動と密着した教育論についての集大成」である。ペシミスト宮崎駿にとっての唯一の希望は、穢れをまだ知らない純粋な、無限の可能性を持つ子供だけ…というのは上で書いた。それどころか、「(子供の)『成長』とは、『子供の持つ無限の可能性を失わせること』だ」とさえ、そこここで語っている始末である。そこで「自然と文明(人間)の共生」というテーマについて『原作ナウシカ』と『もののけ姫』で一度結論を下した宮崎駿は、次作の『千と千尋の神隠し』ではこのテーマは脇道に置き(それでもハクやオクサレサマの正体でそのテーマは語り直されている)、宮崎駿作品において中盤から目立ってくる、「子供(の成長・教育)」というテーマを中心に据えた。それは具体的にいえば、「成長物語の否定」だった。詳しいことは『千と千尋の神隠し』のレビューを参照してほしいが……宮崎駿は当初この映画を、今までの「映画の主人公は成長しなければならない」という既成概念に抗うべく(また宮崎駿が「子供の成長とは、子供の素晴らしい可能性を捨て去り、つまらない大人になること」だと捉えていることもあり)、「成長物語ではない映画」として作ることにした。それは、「成長なんてしなくても、子どもには初めから無限の「希望」と「可能性」がある」ということを大人や、そしてもちろん子供たちに伝えたかったからだ。最後にトンネルに入った千尋が、まるで湯屋での体験や成長をすべて忘れたかのような顔つきで、母親の腕にしがみついていたのが、その証拠である。また宮崎駿は、「『となりのトトロ』を見た人から手紙をもらって、「うちの四歳の子どもがとても喜んで、三十回も四十回もビデオをかけて、そのあいだはおとなしく見てる」とか書いてあっても、じつはちっともうれしくないんです」と何かについて話しているように、『千と千尋の神隠し』では、現代の教育や子育て……それを行う大人世代を痛烈に批判している。子供への共感性が低く、自分のことしか考えていない、ブランド品と外車で着飾る資本主義に毒された「豚」……つまり、千尋の両親とは、脳死でアニメを見せて子供を黙らせておくような、誤った子育てや教育をする親たちのことだろう。「おんも(お外)」に出してもらえないために「本当に面白いこと」を知らないし、自分で立つことすらできないままに、年齢に見合わないほどに見も心もブクブクとわがままに肥大した「坊」。さらには以下の発言を見れば、宮崎駿はそれ以外に、現代日本の学校教育に対しても批判的であることがわかる。「みんな優しくてとてもいい子なんだけど、傷つきやすい子どもをいっぱい育てているんですね。多分それは、ゆとりのある教育をすればいいとか、個性を尊重すればいいとか、そういう問題ではないと思うんです。(略)ほんとになんとかしなければと思います。ぼくは、子どもの体質は悲劇性にあると思ってるんです。つまらない大人になるために、あんなに誰もが持っていた素晴らしい可能性を失っていかざるを得ない存在なんです。それでも、子どもたちがつらさや苦しみと面と向かって生きているなら、自分たちの根も葉もない仕事も存在する理由を見いだせる。今度の映画(『千と千尋の神隠し』)は、子どもたちに嘘はつくまいと思ってつくりました。」(『致知』2001.12)「子供時代に先行投資すれば、その後で大変な配当になって戻ってくるというのは錯覚でしょうね。(略)自分の周りにいる子供たちと夏、山小屋で付き合ったりして「良い子だなぁ」と思もった子が、小学校2年生になった途端『九九』が出来なくて悩んでるって聞かされるんです。そうすると僕は頭に血が上るんです。「なんでこんな幼い子に九九を教えなきゃいけないんだ」って。何年か経てばすぐ覚えられますよ。なんでこんな小さな魂に「覚えなければ、お前は一人前の大人になれないんだ、一人前の子供じゃないんだ」みたいに脅すんだろうって。その子の小学校二年生のもっと豊に暮らせるはずの時間を、それで奪ってしまってるんだと思うんですね」(『このくにの行方』)もっとも、宮崎駿だけでなく、特に日本の高校受験制度は国連からもずっと昔から批判されている。公立高校入試は先進国では日本くらいしかなく、子供の心身の成長に重要な、かつ貴重な思春期の時間をこのような苛烈な競争・比較の中で過ごし、そこでしか価値を見出さない教育を施されたことで、日本の子供――ひいてはその成長した大人は、世界でも類を見ないほどに自己肯定感が低くなっていると指摘されているのだ。では、宮崎駿はどのような教育・子育てを理想としているのか?それは、『となりのトトロ』や『耳をすませば』を見ればわかる(詳しくは各作品のレビューを参照のこと)が…簡単に言ってしまえば、「子供の時代の様々な豊かで尊い経験は学校の勉強よりも大事。その「経験を伴った知識」があって初めて、学校の勉強も(ただ入試で使うだけでない)価値のあるものになるし、将来的な「生きる力」になる」というものだろう。こうした宮崎駿の教育論・子育て論は、作品を通した主張やインタビューでの発言だけでなく、やがて実際に、プライベートで実践されるようになる。それが、スタジオジブリの社内保育園「3匹の熊の家」の設立だ。宮崎駿はこの保育園のデザインを1から行い、いかに子どもたちが楽しめ、「教育」を行えるかに全力を注いだ。そんな社内保育園の子供達に手を振るのは、毎日の日課だ。また宮崎駿といえば、『もののけ姫』の頃から始めた、子供を含む地元民を巻き込んだ川の掃除も有名だ。これもまた、彼なりの教育論の実践の1つなのだろう。最年少の主人公とヒロインが登場するポニョでは、そうした「プライベートの活動と密着した教育論」が集大成的に描かれていると言ってもよい。(ちなみにポニョのモデルは、スタジオジブリのあるスタッフの子供である)リサと宗介の、互いに呼び捨てで呼び合う「友達的な親子関係」は、一見すると、『千と千尋』の空虚な親子関係をさらに進めたようなものにも見えるが、『千と千尋』とは違い、リサはちゃんと宗介に向き合っている。鈴木敏夫は「(宮崎駿監督の設定としては)おそらく母であるリサがそう呼ぶように宗介を育てている」「(呼び捨てにさせるのは)家族間であっても、一個人として自立すべきだということの象徴なのだと思います」「もしかすると、今後の日本の家族のあり方なのかもしれない」と述べている。5歳の子供を海辺にほったらかしにしてるのだって、令和の今じゃあネグレクトだと炎上しかねないが、これもまた、「子供を自立した1個の人間として扱いたい、縛りたくない」という宮崎駿の子育て観が現れていると見るべきだろう。とはいえ、リサがサンドイッチ食べながら片手運転してたり、保育士が「保母」だったりする(しかも熱があっても保育園に子供を預けてる)のは、現代ではやはり炎上必死。ポニョは最近の映画という印象があるが、こう見ると、だいぶ前の作品なんだなと。しかし凄いのは、実際に令和の現代では「友達的な親子関係」が激増しており(代わりに今の子供は友人との友情が減っている)、それは、「もしかすると、今後の日本の家族のあり方なのかもしれない」と述べた鈴木敏夫の通りに、宮崎駿が時代を先取りしていたことがわかる。そして何より特筆すべきは、作品の舞台となる、介護施設(老人ホーム)が併設された保育園だ。(イルカ等のごく一部の生物をのぞいて)繁殖のできない「祖母」という存在は、生物が作るコミュニティの中にはいないのが普通。でもヒトという種は、祖父母と共に子育て――共同養育をすることで生き残ってきた生物だ。しかし核家族化や個人化、都市部への人口集中が進む現代日本では、孫の世話――生物的本能としてのある種の「生きがい」を失ったことも相まって、「ミッドライフクライシス 」を迎える中高年がどんどん増えている。もちろん、子育てをする親の側も、核家族化や個人化、都市部への人口集中によって、子育てや自分たちのケアを十分に行えず、結果として、「子供は贅沢品」と揶揄されるように少子化は進む一方だし、このような環境では、子供の発育に問題が生じたり、虐待やネグレクトが増えるのも仕方のないことである。ついこの間Twitterで、「「昭和は深夜でもないのに女性の裸やグロシーンが放送されてた」っていうのは間違いで、昭和や平成初期の社会にとって21時っていうのは充分「大人だけの時間」だったんですよ。ゾーニングが甘かったんじゃなくて、子供の就寝時間がどんどん後ろ倒しになってるだけなんですガキはとっとと寝ろ!」なんてツイートがバズっていたが、共働き両親のみで子育てするなら、子供を21時までに寝かせるなんてはっきり言って不可能なわけで…こうした事例を見ると、子供を産むのは個人の自由、二世帯住宅なんて論外だし、田舎の濃い人間付き合いはヤダ――なんて時代ではあるが、「ヒトは原則的に、子や孫が必要な生物だし、コミュニティ(共同体)で暮らす生物」であり、その生物的特性が現代の社会進化に追いついていないと、感じざるを得ない。なにせ、ヒトが今のような生活を送るようになったのは、人類史的にはごくごく最近のことなのだから。たとえば「つわり」だって、古くは、母体を休ませるために存在した機構だと生物学的には言われているが、今どきはつわりで会社を休める女性はごくわずかだし、もちろん、寿退社なんてしない現代では、デメリットでしかない。これもまた生物的特性が現代の社会進化に追いついていない典型例だろう。話が少し逸れてしまったが、その点では、ポニョの介護施設(老人ホーム)が併設された保育園は、発表当時こそ、「(ロリコンの)宮崎駿の理想」みたいな感じでネタにされがちだったが、現代の社会問題を鑑みると、「生物学的な役割を失った老人」問題のクリティカルな解決策にも見え、これまた時代を先取りしていたのだなと感心させられる。今は親が共働きで子育て(コミュニケーション)が満足にできない家庭ばかりだから、(家にいない)様々な年代、考え方の人とふれあえる環境は、子供の発育にとっても理想的だ。なにしろ(今の時代の)老人は(まだギリギリ)、それこそ、「学校のお勉強」ではない、「生きる力」に直結する「経験に基づく知識」を持っている世代なので、子供の教育にもメリットが大きい。最後の、⑤「マザコンでありロリコンという屈折した性癖の集大成」だが、まぁこれはオマケみたいなもので。ロリコンについては上述した通りだが、宮崎駿といえば、まぁそうとうなマザコンである。宮崎駿作品には、とにかく、胸のデカい(これはロリコン同様、性=エロスの対象ではなく母性の象徴としてのデカさである)、肝っ玉母ちゃんみたいな女が良く出てくる。主人公(ヒロイン)は基本的には少女だが、この少女(主人公)も、たいては作品のクライマックスでは母性を付与され、「どんな汚れや存在も包み込む母としての器の大きさ」を発揮することが多い。長期連載となった『原作ナウシカ』では、実際に、ナウシカの胸がどんどん大きくなっていくし、実際に、あるキャラクターの「ママ」になる。ちなみに宮崎駿がマザコンになったのは、明らかに幼少期の体験に原因がある(もっとも富野由悠季なり庵野秀明なり、20世紀の男達は皆マザコンだが)。宮崎駿は4人兄弟の次男。胃腸(とついでに目)が弱く、20歳まで生きられないと言われた。体が弱く運動が苦手で、当時は差別の対象でもあった眼鏡も相まって、劣等感のかたまりのような子供だった。その上、6歳の時に母が結核で倒れ、以後9年間にわたって寝たきりの状態となった。母におんぶをせがんだものの、涙ながらに断られた記憶もあるという。母に甘えることもできず、しかしいい子を装った宮崎駿少年は、「生まれてこなければよかった」と思うまでに屈折していった。(なおその後、母は病魔と闘い続け、苦しみながらも、72歳まで生きたという。長生きしたように思えるが、「やっと楽になれた」と宮崎駿は言っていたので、その生は過酷だったのだろう)。つまり、『となりのトトロ』にはある種の実体験が投影されていたわけだが…この「母に甘えられなかった」経験が、彼のマザコンの一因になったのは言うまでもない。また宮崎駿の父親は戦闘機開発者だったのもあり、戦闘機などのミリタリーが大好きで、当然、子供の頃はパイロットになりたいと思っただろうが…虚弱眼鏡男子ゆえにそれは叶わなかった。だから今でも、「空を飛ぶ物語」を延々とアニメで作り続けているのだろう。本当はパイロットになりたいけど、虚弱眼鏡男子だからそれが叶わず、戦闘機を作ることになった『風立ちぬ』の主人公には、明らかに、宮崎駿のコンプレックスが投影されている。話が逸れたが、そんな、マザコンでありロリコンという屈折した性癖を持つ宮崎駿だが、ポニョでは、そんな性癖的な面でも集大成がなされていると言ってよい。ロリコン…子供好きの面に関しては、④で述べたとおりで、ここでは「マザコン」…つまり「母への想い」について見ていく。まぁ一番わかりやすいのは、ポニョの母のグランマンマーレだ。この名前はユングの唱えた原型の1つである「グレートマザー」に由来しているように、まさに「母」の象徴的存在である。そして前述したように、グランマンマーレは「海」の神格化でもある。あらゆる生物の「母」――「母なる海」であることは、言うまでもない。その母性のデカさは、単純に、グランマンマーレがめちゃくちゃデカい姿で描かれていることからもうかがえよう。またグランマンマーレは作中では「観音様」と呼ばれる。大いなる慈悲の心で人々を癒す菩薩である。観音様は本来は男だったが、その母性的な包み込む優しさの象徴と見た人々から、だんだん女性であると考えられるようになり、中国では「慈母観音」と呼ばれたり、女性の姿で像や絵図が作られるようになった。つまり、観音様もまた、「母」の象徴なのである。ちなみにグランマンマーレの姿は「チョウチンアンコウ」で、実はフジモト以外にも何人もの夫がいるという設定がある。「一婦多夫制」であり、つまりポニョの世界は、父性ではなく母性が最大限重要視される「母系社会」的な世界観であることがわかる(そもそも前述したように、宮崎駿作品のほとんどは母系社会的な精神性にあふれているが)なお、チョウチンアンコウのオスは、メスに比べて圧倒的に小さい。体の小さなオスは、メスに出会うとメスの体に噛み付き、離れないように寄生するのだが、オスはそのうちメスの体と一体化し、血管でつながることでメスの体の一部となり、最終的には精巣を残して脳や心臓、えらや消化器官は無くなり、精子を供給するだけの器官となってしまう。なんというか、マザコンの末路(理想?)みたいな繁殖法である。自然を破壊する人間を嫌悪し、海の神(グランマンマーレ)の眷属となって人間を辞めたポニョの父「フジモト」に、自然を愛し、人間に絶望する宮崎駿が投影されていることは前述したとおりだが、彼の理想の死に方は、チョウチンアンコウのオスなのかもしれない……一方、主人公の宗介の母親、リサには、あまり母性を感じない。しかしこれには理由がある。そこで、3人目の母、トキを見ていく。まず、宮崎駿作品にはおばあさんがいっぱい登場するが、これもまた、彼のマザコン面の発揮だろう。ポニョは前述したように舞台の一つが老人ホームなので、これまたおばあさんがたくさん出てくる。その中でも一番印象的なおばあさん、トキさんのモデルは、実は宮崎駿の母親がモデルなのだ。クライマックスで、宗介は魚に戻ってしまったポニョをバケツに抱えて守りながら、怪物たちに追いかけられる。そんな絶体絶命の宗介とポニョを救ったのは、なんとトキさんだった。車イス生活をさせられていたトキさんだが、ポニョの魔法の力で足腰を復活させ、自分の足で立ち上がり、宗介を抱きしめる。本作は宗介とポニョの物語のはずなのに、映画最大のクライマックスは、なぜかこの、トキが宗介を抱きしめるシーンなのである。ここに、病に伏せっていた母親の元気な姿を見たい、その母親に抱きしめられたい――という宮崎駿の、母への想いが反映されていることは、言うまでもない。映画の最後でトキさんが抱っこしたのは、5歳の宮崎駿だったのだ。NHKの、ポニョ制作に密着した『プロフェッショナル』で宮崎駿は、映画本編では流れなかったイメージソング「ひまわりの家の輪舞曲」(作詞:宮崎駿、作曲:久石譲)を聞きながら、母を思い出して泣きながら、このクライマックスのシーンを構想していた。その歌詞は次のようなものだ。おむかえは まだ来ないからその間に 一寸だけ歩かせてもういちどだけ踊りたいそよ風になってクルクルまわる 手をつないで背すじをのばして ヒザをのばして足をはねあげて スカートがふくらんでみんなニコニコ笑ってるおむかえは まだ来ないから窓のガラスを ふくだけでいいのもういちどだけ踊りたいそよ風になって同番組で宮崎駿は、「何となく、会えるんだろうと思ってますよ、おふくろに」「おふくろに会うんだったら、一番かわいい時期に会いたいな」と話していた。まさに、宮崎駿は、映画の中で母親と再会したのだとわかるが…この発言を踏まえると、一見、母性から離れた宗介の母リサも、また違った視点で見えてくる。リサとは、「おふくろの一番かわいかった時期」なのではないか?リサは、海から帰ってこない夫に向かって、モールス信号でバカバカと伝え、子供を巻き込んでヤケ食いしたりする。そこには、いわゆる「正しい母の役割」は見えず、愛する男を待ち焦がれる一人の「女性」として描かれているのがわかる。リサはまだ、「母」になる前の存在――一番かわいい時期の母なのだ。(現代フェミニズム的には、「女性が母になる」という概念はもう受け入れられないだろうが、そこはあえて触れまい)また、トキに抱きしめられる宗介=宮崎駿だということは先に書いた通りだが、宗介もまた、(母に甘えられなかった屈折からマザコンになった)宮崎駿とはまた違ったベクトルでの「マザコン」である。その理由は単純で、宗介の父はほとんど家に帰ってこず、宗介は起きているほとんどの時間を母リサと一緒に過ごしているからだ。宗介は最終試練となるトンネルに入る前に、「ここに来たことある」と呟く。しかし、劇中ではそのトンネルを通ったことはなく、またもちろん、その過去が明かされることはない。ということは、そのトンネルは、母の子宮を指しているのだろう。そのトンネルに入る前に、空っぽになったリサの車を見つけ、リサの喪失を直感した(マザコンの)宗介は、激しく泣きだしてしまう。それは、自分を守ってくれる母性を喪失したからだ。だが、その後宗介はポニョを守るために奮起してトンネルに入り、そして、トキさん=母に抱きしめられこと、さらに本当の母であるリサと再開し、宗介は母性を回復することは、既に書いた通りだ。つまり、この映画には、理想(象徴)の母としてのグランマンマーレ、若かった(かわいかった)頃の母としてのリサ、老いた(現実の)母としてのトキと、宮崎駿の「母」が3人に分割して投影されているのだ。リアルな母親も描きたいし、かわいかった(ロリだった)頃の母親も描きたいし、イデア的な理想の母親も描きたい――ポニョはそんな、マザコン宮崎駿の集大成的な映画だった。――のだが、その後、最新作『君たちはどう生きるか』で、宮崎駿はなんと「ロリ時代の母親」という…なんというかもう、なりふりかまっていないというか、ロリコン×マザコン性癖における、真の集大成的なヒロインを描いてしまったのだから、今となっては、ポニョの圧倒的なロリコン×マザコン性は薄れてしまったと言える。……とはいえ、当時の宮崎駿がポニョを集大成的な作品として制作していたことは明白でだし、このような集大成的な作りになったのも当然だ。実は、ポニョの発表時、宮崎駿は引退宣言をしているのだ。いや引退宣言自体はもののけ姫の頃からしていて、もはや伝統芸のようなものでもあるのだが……それまでは「ここが辞め時」的なニュアンスでの引退宣言だったのに対し、『ポニョ』の時は「体力的にこれが最後」という意味合いでの引退宣言をしていたので、本当に最期だと思って制作していたのではないかなと思っている(つまり、それまでの引退宣言はある種の「自分への追い込み」)。ポニョが「引退作としての集大成的作品」として制作された根拠として、本作には、これまでの宮崎駿作品のオマージュのようなシーンが大量に登場する、という点も挙げられよう。たとえば、町が水没して子供たちだけで船をこぐのは『パンダコパンダ』と同じだし、宗介とポニョが波打ち際で出会うシーンは、『未来少年コナン』でコナンとラナが出会うシーンまんまだし、別れのシーンの仕草も、コナンはジムシィとダイスに同じことをしていたし、リサのあらくれな運転は、『宮崎ルパン』や『名探偵ホームズ』のカーチェイスを思い出さずにはいられないし、海の生物群が人間界を覆うように襲うのは、『ナウシカ』で王蟲の群れによる大海嘯そっくりだし、「ポニョの映画の中では、津波が破壊的には働かないで、町をきれいにして人の心まで綺麗にするという、不思議な魔法になってます」と宮崎駿が答えているようにその効果は同一のものだし、ポニョが「魔法を使う女の子」で、さらに親元を離れて暮らすのは『魔女の宅急便』のあらすじそのままだし、銅版画風のオープニング映像は『ラピュタ』と同じだし、宗介とポニョが嵐の中で再会するシーンは、パズーがシータを炎の中から救出する場面を思い起こさせるし、眠そうなポニョの顔は、『トトロ』での眠そうなメイの顔とまったく一緒だし、介護施設に出てくる3人のおばあちゃんは、『紅の豚』の3人の老婆と同じだし、ポニョの人間体は冒頭で人質にされた子どもたちとそっくりだし、"船の墓場"はもちろん"飛行機の墓場"だし、結婚を誓うラストは、『耳をすませば』と同じだし、「生まれてきてよかった」というキャッチコピーは、『もののけ姫』のコピー「生きろ!」のアンサーに思えるし、不気味なトンネルを通るシーンは、言うまでもなく『千と千尋』だし、冒頭の海底の廃棄物はオクサレ様――川への廃棄物と同じだし、おばあさんの一人ヨシエの顔は、『ハウル』の荒地の魔女の素顔とそっくりし……等々、他にもセルフオマージュ・パロディのようなシーンが目白押しなのだ。クリエイターたる宮崎駿としては、基本的には、「同じことは二度とやりたくない」と言うスタンスなので、過去作のオマージュをやるのは、彼としては珍しいことだ。これは、「最後の作品だから」という意識があったからではないか?(ただ、このセルフオマージュは意図的なものではなく、無意識的な、一種の「走馬灯」のようなものだとは思う)まぁ結局、前作のハウルに売上が及ばなかったことで、引退宣言は撤回、真の引退作としての『風立ちぬ』制作が始まるわけだが……(そしてまた撤回する)ちなみに、上述した「最後の作品・集大成的作品」としての?セルフオマージュ祭りは、最新作の『君たちはどう生きるか』で再び行われることになることは、上でも書いたし、また『君たちはどう生きるか』の感想で詳しく書いた通りである。なお、ポニョを「引退作としての集大成」として見た際に、あと一点足りないとするならば、それは「ミリタリオタクの反戦主義者」という矛盾した自身の趣味についての言及だろう。この点は、言うまでもなく、次作の『風立ちぬ』でこれでもかと掘り下げられることになる。だが、ここで(引退作とならなかった理由としての)ポニョがハウルほど売れなかった理由は、やっぱり、ポニョを「子供向け」に全フリしすぎたというのが一つあると思う。公開当時は、既に少子高齢化の時代。そして、アニメとは、子供ではなく大人も見るものになっていた。まして、これまで大人向けの上質な作品を作ってきた宮崎駿である。「大人向け」あるいは「大人も子供も楽しめる」作品が求められたのは言うまでもない。しかし、ポニョは全力で子供向けだった。それは、予告を見ればもうすぐにわかる。「ポニョは意味不明」と言う大人がいるが、それは、「大人の脳」で見ているからである。それはつまり、論理的思考とか演繹法的思考でストーリーを読み解いたり、あるいは予想することだ。そんな思考でストーリーの筋"だけ"を追っていくと、「意味がわからない」「おかしい」という評価になってしまう。だが、論理的思考なんてものは数学等によって養われるもので、子供はそんなものに縛られずに、もっと自由に物語を楽しむことができる。実際に、「ポニョを楽しめなかった子供」というのは、少なくとも自分の経験だけで言えば、見たことも聞いたこともない。もう、みんな、大ウケである。その点で、大人の評価は得られず、結果として売上も(予想より)伸びなかったものの、狙いとしては十分成功しているのである。そしてまた、宮崎駿がこのような――ある意味でハイリスクが確定した――子供向け全フリの企画を立てたのもまた、ポニョを引退作のつもりで制作したからなのだろう。なぜなら宮崎駿は、何かに付けて「アニメは子供のもの」「子供に向けて映画を作りたい」と言っており、それが、自身のプロ意識の一つだからである。面白い作品を作ろうとして、大人向けの作品を作ってしまったたびに、宮崎駿は後悔や、自作への低評価を口にしている。それは、④の項でも書いたが、「子どもたちに対して、世界は美しいのだと、証明しなければならない。生まれてきてよかったねと、彼らを祝福しなければならない」というのが、宮崎駿の、映画を作る理由だからである。だからこそ、最期は、自身に求められる「大人も子供も楽しめる作品」ではなく、「100%子供向けの作品」を作ろうとしたのではないだろうか?実際に、『CUT』で行われたポニョの長編インタビューで、宮崎駿は次のように述べている。「目の前にいるチビたちを見てね、これを祝福せざるを得ないじゃないかっていう。祝福されているかどうかわかりませんよ? でも祝福せざるを得ないっていう。そういう映画を作るんだと」「やっぱりアニメーションの王道っていうのは、子どもたちが観て楽しかったと言ってくれることだと。全部、筋がわからなくていいんだっていうことは、いつも思っています」(なお、この点から考えると、いわゆる「死後の世界」だとか「実は死んでる」的なよく聞く都市伝説がいかにありえないものかというのがよくわかる)というわけで、一度はつまらないと思った皆さんも、そんな視点で、もう一度見てみてはいかがでしょうか?ちなみに、ポニョ制作時のドキュメンタリー『ポニョはこうして生まれた』は、まさかの2クールアニメくらいの尺がある質・量ともにイカれたドキュメンタリーなんですが、超面白いのでオススメです。
緑**筆
値が下がらなかった
やっと値が下がったので買いました。ポニョって何でブリュンヒルデって名なんだろ?いまいち、繋がりが分からん。
溺**魚
分からないという事
何故この映画を楽しめたのか自分でもよく分かってませんが、出来る限り自分の思うことを書いてみようと思います。この映画が賛否両論、かなり極端に分かれているという事に納得した上でのレビューです。私は絵を描くことを生業としている人間なので作画だけでも楽しめてしまったのかもしれませんが内容がつまらないとは微塵も感じませんでした。確かにこの映画には、しっかりとした起承転結とか、感動的なカタルシス等存在しないのかもしれません。しかし、だからこそ、私には合っていたんだと思います。今まで、映画なり、漫画なり、小説なり、それなりに色んな作品を観て来たつもりですが劇的なドラマとか、綿密に構成されたシナリオとかそういうのは確かに見ててすごく面白いです。そういった作品の虜になった事もあります。しかし、いつしか、そういった作品をたくさん見るようになってだんだんと展開が予想できてしまったり、予想できなかったとしてその時は楽しめても、「結局は作られた話だよな……」とか穿った見方をするようになってしまった。まあ、これは私の性格に問題があるのかもしれませんが……もちろんポニョも作品である以上、作られた話です。だけど、こういう性格の自分でも楽しめてしまった。基本的に宮崎作品は好きですが、これ程までに楽しめた作品は今までなかったというくらい楽しめたのです。それは纏めてしまうなら、宮崎駿の「分からなくても分かるものを作ろうと思った」という言葉に集約されてるのかもしれません。その言葉どおり、物語の楽しみ方というのをまだ分かってない子供(それはおそらく宮崎駿に言わせれば5歳くらいの子供までなのでしょう)が楽しめるように出来ているとするなら、逆に言えば「分かりきってしまった大人」(これは極端な表現で自分の事をそうは思えませんが)も楽しめてしまうのではないでしょうか。もう分かりきってしまって、分かるものが楽しめにくくなってる人間も楽しめるという事です。そうなると、今世の中に溢れる様々なエンターテイメントを楽しんでる人間には楽しめないのかというと、色々なレビューを見る限りそうでもないみたいなので決してこれが正解ではないでしょう。そもそもどういう人が楽しめるのか、楽しめないのかそれが分かってる作品なんてたかが知れてる訳ですから結局は主観で「自分はこう楽しめた」と書くしかないのですが。なので、あえて一言で済ませるなら「分からないという事が楽しめた」という感じでしょうか。逆の立場から言えば「なんだこれ?つまらん」とか「分からないように描けばいいと思ってないか?」ですかね。別にどちらが正しいか間違ってるかなんて事はありません。そんな事が分かる人間は存在しません。そして、この作品に限った事ではないですが、酷評(そして絶賛…自分にもですね)をしている方たちへ。自分がつまらないと思ったのなら酷評するのはごく自然で、当たり前な事です。しかし、評価の固定化だけはしてほしくない。人間生きていれば、日々色んな事を経験し、見聞きし、価値観も変わってくるものです。もし今この作品を、ものすごくつまらないと思っているとしても将来また奇跡的にこの作品を見る機会があったら、もしかしたら面白いと思えるかもしれない。逆も然りで、今自分はこの作品を絶賛していても時が経つにつれ、醒めた目で見るようになるかもしれない。ごく当たり前な事を、作品のレビューと関係なしに書いてしまいましたが何か断定的なレビューが多い気がしたので。
S**I
ストーリーについて想うこと
主にストーリー面に「?」を付ける人が多いこの映画。私自身はNHKで二度に渡って放送された「仕事の流儀」で創造の過程を見せてもらった為、映画館で見て「あー、そっか〜、こーなったか〜」程度に受け止めました。映画としての出来はさておき、非常に贅沢な作画で表現された大津波とカーチェイス(?)シーンには文句なく圧倒されたので、このブルーレイ版を購入予定です。以下は、前述の番組で個人的に注目したくだり。(文章だとわかりづらいかも。詳しくは同時発売の「こうして生まれた」を見ると良いでしょう。なんか本編より高額らしいけど…)・キャラクター造形のブレイクポイントは、とあるスタッフの幼い娘の他愛ない逸話。(その子は気位が高く、自分の手で哺乳瓶を持とうとしない。それを面白がる監督)・そこから「周りの迷惑顧みず、惚れた男に会いに来る一途な半魚人ヒロイン」のイメージボードが完成。・あとはヒロインの今後の心配。なのでこの話、人間化したヒロインが万難排して男の子に再会し、ぎゅっと抱きつくところで「本来のやりたい事」はどう見ても終了してます。実際、映画を鑑賞しても、そこまでのテンションは非常に高い。で、そのあとは延々監督の「老婆心」がつづられます。つまりこのヒロインが今後、陸の世界で人間としてやっていける根拠の羅列です。以下にまとめます。・ヒロインに自分のものを他者に与える思いやりの心が芽生える(子連れ夫婦との船上でのやりとり)・男の子の決してぶれない性格を強調・双方の親同士での合意(ただし男の子の父親は最後まで蚊帳の外だがw)・大災害を意に介さず、たくましくおおらかに生きていく町民たち=だから彼らはヒロインもすんなり受け入れる事でしょう…そうして、この二人は末永くしあわせに暮らしていけますよ、と念を押し、物語は終わります。同監督の漫画映画「カリオストロの城」で例えると、問題山積みの公国とヒロインのお姫様がルパンが去った後、いかにその問題を解決していくかを延々見せられるようなものなので、そりゃ違和感覚える人が多いのも無理ないよな、と感じてしまいます。おそらくは本人の望まぬ形で、周囲から「巨匠」扱いされ続ける老齢の天才アニメーター。ご自身で宣言している通り、これが最後の長編映画作品になることを祈ります。この映画、キャラクター整理して、二人の再会までを10分くらいの活劇ショートフィルムにしたら、みんなもっと素直に楽しめたんじゃないでしょうか?
A**ー
満足です
満足です
斉**二
手書きとデジタルの境目が
手書きとデジタルの境目がどこなのか判別できない。
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